





小石川後楽園は江戸時代初期、寛永6年(1629)に水戸徳川家の祖である頼房が、その中屋敷(のち上屋敷)に造ったもので、2代目藩主光圀の代に完成した庭園である。
《アクセス》
都営地下鉄大江戸線「飯田橋」(E06)C3出口下車 徒歩3分
JR総武線「飯田橋」東口下車 徒歩8分
JR総武線「水道橋」西口下車 徒歩8分
東京メトロ東西線・有楽町線・南北線「飯田橋」(T06・Y13・N10)A1出口下車 徒歩8分
東京メトロ丸ノ内線・南北線「後楽園」(M22・N11)中央口下車 徒歩8分
《住所》
東京都文京区後楽一丁目
《電話》
03-3811-3015
《入園料あり休園日あり》
https://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/spot/teien/korakuen.html

回遊式築山泉水庭園であり、国の特別史跡及び特別名勝に指定された、都立9庭園の一つである。光圀は造成にあたり明の遺臣朱舜水(しゅしゅんすい)の意見に従い、円月橋、西湖堤など中国の風物を取り入れ、園名も朱舜水の命名によるなど、中国趣味豊かな庭園。
小石川後楽園は、現在残っている庭園の中では東京で最も古いものとなっている。
後楽園の名は、中国の范仲淹「岳陽楼記」の「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から名付けられた。
敷地面積は7万平方メートル以上だが、すぐ近くに東京ドームがあり、借景がドームの屋根というちょっと不思議な空間でもある。
大泉水は、この庭園の中心となる景観で逢菜島と竹生島を配し、琵琶湖を見立てて造られた。昔はこの池で舟遊びもしたと言われている。
円月橋は水面に映る形が満月のように見えることから付けられた名称。明の儒学者朱舜水による設計と言われている。
**2代目藩主光圀は明暦3年(1657)30歳の時に、史局(のちの彰考館)を開設して、国史の編纂事業に着手。記述内容や編集方針をめぐる幾多の論争を経て、明治39年(1906)に、神武天皇から後小松天皇(南北朝合一が成立したときの天皇)に至る歴史を漢文で叙述した『大日本史』402巻が完成し、目録を附けて402巻を徳川圀順氏から、明治天皇、皇后両陛下に献上し、また常磐神社に奉納したのである。
六国史や『本朝通鑑』が編年体だったのに対して、『大日本史』は、紀伝体(歴代天皇の編年記録である「本紀」に主要人物の伝である「列伝」等を配した歴史叙述の形式)を採用している。徳川光圀の史観を反映して、(1)神功皇后を本紀ではなく皇后列伝に入れ、(2)大友皇子の即位を認め、(3)南朝を正統とするなど、従来の史書と記述が異なることでも知られ、幕末の尊皇思想にも影響を与えました。**国立公文書館参考資料
この間約250年、光圀公の始められた修史事業は、その根本方針は代々の藩主である水戸徳川氏が受け継いで監督し、実際の研究と執筆は代々彰考舘員が遂行した。 しかし明治維新が達成され藩が廃止されてからは、徳川家の事業として完成されたのである。
こうして「大日本史」を変遷していくなかで、水戸藩のなかで次第に出来上がった学問が水戸学であり、幕末の尊皇運動の理論的根拠となるのである。
学問に心血を注いだ光圀公の話を聞くと、子供の頃から勉学に励んでいたように思うかも知れないが、父頼房が実は光圀公の誕生を望んでなく、堕胎するよう命じていたことを知り、若い頃の光圀公は反抗的であり、世の中を斜に構えて捉えていた。が、やがて光圀公の傅役(ふやく :皇室・貴族社会・武家社会で世継ぎを大切に世話をし育てる役目。)として使えた武士達の博識ぶりに興味を覚え、自身も次第に中国の人物と歴史に関心を持つようになるのである。
父頼房の死後、藩主になってすぐ光圀が出したのは「殉死禁止」の令である。殉死の禁止は人命尊重の気持ちを募らせていた光圀は、父の死に対して藩の武士が腹を切ることを禁止した。この厳命は守られて、水戸家では父・頼房の死に対する殉死者は1人も出なかった。
かと思うと、隠居した光圀は才覚があり目を掛けていた藤井紋太夫という家臣が、将軍・綱吉の側近・柳沢吉保に接近して、どうも光圀を力のない立場に追いこむような企てをしている動きをしていると疑念を持った。そして、その疑念が事実だと確信した光圀は、ある日突然、藤井を刺殺したのである。
慈悲深く「愛民」の思想を貫いた光圀公であるが、時には人倫の道、大義を正す、ことを守らぬ者、忠誠に背く者を裁くことも辞さない鋭き人物であった。
みなさんがよくご存知の「助さん・格さん!やっておしまいなさい!」の水戸黄門、『水戸黄門漫遊記』そのものは、まったくのフィクションです。ですが、光圀公が亡くなられた時生前の行ないを偲んで「義公」と贈名を受けるほど、愛されていた人物だったのですね。
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