東京都台東区 黒田記念館

日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝は、大正13(1924)年に没する際、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言した。これをうけて昭和3(1928)年に竣工したのが黒田記念館である。館内には、遺族の方々から寄贈された遺作を展示して画家を顕彰するために黒田記念室が設けらた。
《アクセス》
JR上野駅 公園口徒歩10分
《住所》
 東京都台東区上野公園13-43
《電話》
03-5777-8600
《入館料なし・休館日あり》
https://www.tobunken.go.jp/kuroda/



昭和5(1930)年、同館に美術に関する学術的調査研究と研究資料の収集を目的として、現在の東京文化財研究所の前身である美術研究所が設置され、日本・東洋美術に関する調査研究業務が行われてきた。
平成12(2000)年の新庁舎の竣工により、東京文化財研究所の全ての業務が新庁舎に移ったのに伴い、黒田記念館が昭和初期における岡田信一郎(明治生命館鳩山会館ニコライ堂)による設計として貴重なものであることから、創建当初の姿に復することとなった。そこで、2階部分を中心に改修が行われ、平成13(2001)年9月に開館、平成14(2002)年には国の登録有形文化財となる。
 平成19(2007)年4月1日には独立行政法人文化財研究所と独立行政法人国立博物館が統合し、新たに独立行政法人国立文化財機構が設置され、これにともなう組織改編により、黒田記念館は東京国立博物館に移管された。

黒田は、1866(慶応2)年6月29日、鹿児島市高見馬場の地に生まれた。島津藩士であった父黒田清兼、母八重子の長男として誕生し、新太郎と命名された。(後に清光、さらに清輝と改名した。)しかし、誕生時にすでに決められていたと伝えられているが、1871(明治4)年に父清兼の兄黒田清綱の養子になり、翌年実母と養母となる貞子にともなわれて上京、麹町平河町の清綱邸で少年時代をすごすことになった。養父となった清綱は、同じく島津藩士であったが、幕末には鳥羽伏見の戦いなどで数々の武勲をたて、維新後は、東京府大参事、文部少輔、さらに元老院議官を歴任し、1887(明治20)年には、子爵をさずけられた。このように、清綱は明治開花期の顕官であり、清輝はその嫡男としてむかえられたのだった。当時の清綱邸は七千坪もあり、清輝の小学校時代には、友達と邸内の池で泳いだり、滝を浴びたりして遊んでいたと伝えられるように、経済的にも、物質的も、恵まれた環境で成長していったのである。
十代になると、大学予備門をめざして英語を学び、ついでフランス語に転じ、17才のとき、外国語学校フランス語科二年に編入学した。フランス語を学ぶようになったのは、法律を勉学する目的からであった。これは、明治初年に政府が、フランスの法律制度をモデルに、民法、刑法等を整備しようとしたことから、法律を学ぶものは、まずフランス語の修得が必要とされていたためであった。そうしたところ、1884(明治17)年に義兄橋口直右衛門(清綱の娘千賀の夫)がフランス公使館に赴任することになり、かねてフランスで本格的に法律を学ぶことを願っていた清輝も同行することになった。
それから1893(明治26)年、27才で帰国するまでの約10年間にわたる留学生活は、黒田にとって、多感な青年期のなかの自己発見と自己形成の時代にあたる。そのなかでも、もっとも大きな転機は、法律の勉学から画家になることを決意したことである。黒田は、日本公使館でパリ在住の日本人の集まりにて、しきりに画家になることをすすめられた。黒田自身は、留学に出発するにあたり、養母から旅中の慰みにと、水彩画の絵具箱を贈られ、日本への書簡にもときおりスケッチを添えたりしていたが、それはあくまでも趣味であり、フランス語を学び、法律家になることが目的だったからである。
黒田は悩んだ結果、養父に書簡を送り画家になることを決意し、フランス人画家ラファエル・コランにに入門した。養父は最後まで画家への転向には反対であった為、しばらくは法律の勉学をつづけながらの絵画習学であったが、1887(明治20)年8月には、法律大学校も退学し、絵画に専念することになったのである。

10年ぶりに日本に帰国した後、コランの元で共に学んだ久米桂一郎と、山本芳翠から譲り受けた画塾生巧館を天真道場と名を改め指導することとなる。
フランスにてコランから学んだように、塑像(石膏像)、ついで活人(裸体)をモデルにして、アカデミックな写実性をもたもちながら、印象派的な明るい外光表現を目指すものであった。
黒田は指導の傍、博覧会に自身の作品を出展し妙技二等賞を受けたのであるが、その作品が裸体画であり、博覧会という多数の観衆をあつめる場に陳列されていることに、風俗を乱すものとして、諸新聞がいっせいに非難の記事をかかげたのである。
また、当時の唯一の洋画の美術団体であった明治美術会の第7回展に、黒田は、滞欧作21点を出品した。これには、久米も、そして天真道場で学ぶ青年画家たちもこぞって出品したのである。これによって、黒田たちの外光表現による作品群と、それ以外の画家たちの作品群との表現の違いが、あたかも二分されたように観る者にうつったのである。この現象を新旧の対比としてとらえたのが、当時の諸新聞の批評記事を中心とするジャーナリズムであった。しかも、対比というよりも、黒田たちを新派、それまでの明治美術会の画家たちを旧派、さらに紫派と脂派、正則派と変則派などと、あたかも流派の対立のようにさまざまな呼称をつけながら報じたのである。
こうしてジャーナリズムにあおられて、一層明瞭になった画風の違いばかりでなく、会頭をいただき、規則づくめの明治美術会の官僚的な在り方にも、黒田は不満であった。そのため翌年6月に、黒田、久米、そして彼らのもとで学ぶ青年画家たちと会を結成したのである。彼らが好んだ濁り酒「シロウマ」から名付けられたという、白馬会。この会には明確な会則はなく、役員もおかず、自由平等を主義に会員たちの作品を展示する展覧会をひらいていくことになった。
白馬会は、1911(明治44)年に解散するまでに、はぼ毎年展覧会を開催し、13回展までつづいた。この白馬会展は、明治後半期の洋画界をリードし、藤島武二、青木繁など数々の才能を開花させた意義は大きかったといえる。
最後の白馬会展が開催された1910(明治43)年10月、黒田は帝室技芸員を命じられた。これは、その作品とともに、東京美術学校、白馬会、そして文展の審査委員など、教育行政面での活動がみとめられたためで、洋画家としては初めての任命であった。のちに、貴族院議員(1920年)、さらに帝国美術院院長(1922年)などの要職に着き、晩年は美術行政の面での活動が多くなり、画家としては、小品を発表するにとどまっていった。
黒田のもたらした新しい絵画表現と思想、そしてリベラルな精神によって、日本の美術界は大きく変わり、その功績は残された多くの作品とともに、今もなお高く評価されている。

黒田記念館には、ショップとカフェが併設されています。
ショップ入り口付近ではコーヒーの良い香りが漂い、ついふらっとカフェに立ち寄りたくなります。
カフェ2階部分には、ソファ席もありますよ。
入館料が無料で、これだけ間近で黒田清輝の作品を見られる環境は、ぜひ後世に残していかなくてはいけないなぁ…と思いました。
ご遺族を黒田清輝氏に感謝。

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