









鳥居坂にある、ロックフェラー財団を始めとする内外の諸団体、個人の支援により設立された非営利の民間団体の施設。レストラン、ティーラウンジ、宴会場、会議室などを利用でき、ロイヤルパークホテルが各施設の運営を行っている。
《アクセス》
都営大江戸線麻布十番駅 7番出口徒歩5分
東京メトロ南北線麻布十番駅 4番出口徒歩8分
東京メトロ日比谷線六本木駅 3番出口徒歩10分
《住所》
東京都港区六本木5‐11‐16
《電話》
03-3470-4611(代)
https://www.i-house.or.jp/

国際文化会館の庭園ならびに敷地は、江戸時代から幕末にかけて多度津藩(現香川県)藩主京極壱岐守の江戸屋敷であったもので、 明治初期に井上馨候爵(外務大臣)の所有となり、1887年(明治20年)4月、邸内に茶室八窓庵を移築した折、明治天皇、皇后、皇太后、各国大使をお迎えしてのお披露目が盛大に催され、その際九代目市川團十郎以下一流の役者により庶民の文化であった歌舞伎を初めて天覧に供し、これにより歌舞伎興隆の端緒を開いたといわれている。その後、久邇宮邸、赤星鉄馬邸、岩崎小彌太邸と変遷し、戦後は国有地となっていたものを国際文化会館が払い下げを受け今日に到る。
日本建築学会賞を受賞した本館は、2006年8月に文化庁が指定する「登録有形文化財」に登録された。
現在の庭園は、昭和5年岩崎小彌太がわが国屈指の京都の名造園家「植治(うえじ)」こと7代目小川治兵衛に作庭を依頼したもので、桃山時代あるいは江戸初期の名残りを留めている近代庭園の傑作として知られている。2005年に港区の名勝に指定された。




毛利庭園は、六本木ヒルズ内の日本庭園。テレ朝が隣接しているので、お天気中継などでもおなじみの庭園。毛利甲斐守邸跡(長門長府藩麻布上屋敷の跡)でもあり、赤穂浪士の岡嶋八十右衛門ら10人が切腹した邸で、乃木大将誕生の地でもある。復元庭園ながら大名庭園時代の雰囲気を残している。
慶安3年(1650年) 毛利元就の孫、秀元が上屋敷を設け、庭園が造られたが、幕末には、長州藩が京で幕府側と武力衝突した禁門の変、さらには長州征伐に対する仕置きとして、藩邸を没収、建物も破却されている。
(近くにあった長州藩下屋敷=現・檜町公園周辺も没収、破却)
明治時代になると、中央大学の創始者である増島六一朗が明治20年(1887年)自邸として取得し、庭園を芳暉園と名付けられた。
昭和になると、昭和27年(1952年)ニッカウヰスキーの東京工場、昭和52年(1977年)にはテレビ朝日と所有者が変遷し、平成15年、再開発に伴い六本木ヒルズが建設され、同時に毛利庭園として生まれ変わった。
ニッカウヰスキー工場時代、年1回住民に開放され親しまれていたニッカ池を、現在の池の下に埋土保存し、将来の遺構発掘の可能性を残しているなど歴史に配慮した庭園造りを行っている。
池にあるハートのオブジェは、ジャン=ミシェル・オトニエル作の「kin no kokoro」で、入り口にある御影石のオブジェはマーティン・プーリエ作の「守護石」である。
どちらも、六本木ヒルズパブリックアート&デザインプロジェクトの一貫による作品である。






東京ミッドタウンに隣接する港区立公園。江戸時代に長州藩毛利家の下屋敷があった場所で、名園と誉れた屋敷の庭「清水園」からは江戸の街並みが一望できたという。檜の木立に囲まれた屋敷は檜屋敷とも呼ばれて旧地名「檜町」と公園名の由来にもなった。
幕末には、長州藩が京で幕府側と武力衝突した禁門の変、さらには長州征伐に対する仕置きとして、藩邸を没収、建物も破却されたのである。
その後明治時代からは国の管轄となったが、第二次大戦後の一時期に米軍の接収を受ける。その後、敷地の大部分は防衛庁の区画となり、残りの区画が「檜町公園」として開園。防衛庁が市ヶ谷に転出したことで、その区画も公園敷地となり東京ミッドタウンが開発されたのを受け、当公園も綺麗に整備された。

六本木にある庭園3箇所は、徒歩で見て回れる距離です。
六本木ヒルズ、東京ミッドタウンの近代的集合施設と近代芸術のオブジェに、日本庭園を隣接させているところが、落ち着いた雰囲気を醸し出す良いアクセントになっていますね。
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