






儒学の 振興をはかるために、元禄3年(1690)徳川5代将軍綱吉によって建てられた孔子廟。湯島聖堂は日本学校教育発祥の地でもある。
≪アクセス≫
JR御茶ノ水駅 徒歩2分
東京メトロ千代田線新御茶ノ水駅 徒歩2分
東京メトロ丸の内線御茶ノ水駅 徒歩1分
≪住所≫
東京都文京区湯島1-4-25
≪電話≫
03-3251-4606
http://www.seido.or.jp/

林羅山によって建てられた私塾「先聖殿」は、林羅山の死後も幕府によって護られていた。
五代将軍綱吉の時代、儒学を重んじていた綱吉は「先聖殿」を現在の湯島に移し、門も建物も立派なものに整え、「聖堂」と呼ぶこととした。
綱吉は徳川幕府をより強固なものにするため、武士の世を確立するため、儒学を広めようとしていた。
しかし、八代将軍吉宗の時代になると、吉宗がもっと現実的な、工業や医学などの学問を重んじたため、一時期、儒学が語られる機会がぐっと減り、火災で建物が焼け落ちるなど不幸なことも続いたため、湯島聖堂は廃れていった。
18世紀の後半、大火や飢饉続きで不安定な江戸の町で、幕府の威厳を取り戻すべく、時の老中松平定信は様々な学問の統制・改革を行い、儒学を担ぎ出す。
また、湯島聖堂の改築・改修を行い、林羅山の私塾を幕府管轄の施設と位置づけてこの地に移し、「昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)」を開設。
明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存置したが、明治4年(1871)これを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここにその歴史を閉じた。
大正11年(1922)湯島聖堂は国の史跡に指定されたが、翌12年(1923)関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失した。この復興は斯文会が中心となり、昭和10年(1935)工学博士東京帝国大学伊東忠太教授の設計と㈱大林組の施工により、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建を果たした。この建物が現在の湯島聖堂で、昭和61年度(1986)から文化庁による保存修理工事が行われた。
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