横浜市 三渓園

明治時代末から大正時代にかけて製糸・生糸貿易で財をなした横浜の実業家原三渓(本名富太郎)が造り上げた広さ175,000㎡(53,000坪)の日本庭園。
平成19(2007)年に国の名勝に指定され、庭全体が文化財として位置付けられている。
《アクセス》
JR横浜駅東口2番乗り場(市バス8・148系統)35分三渓園入り口下車徒歩5分
JR桜木町駅2番乗り場(市バス8・148系統)25分三渓園入り口下車徒歩5分
みなとみらい線元町・中華街駅4番出口山下町(市バス8・148系統)25分三渓園入り口下車徒歩5分
《住所》
横浜市中区本牧三之谷58番1号
《電話》
045-621-0634・5
https://www.sankeien.or.jp/

三渓園を造った原富太郎とは一体どんな人物だったのか。
慶応4(1868)年8月23日岐阜市にて青木久衛の長男として生まれる。幼い頃より聡明で、進学のために上京、東京専門学校(現早稲田大学)に入学し政治学・経済学を学ぶ。また富太郎は学生でありながら跡見学校(現跡見学園)にて助教師を務めていた。
そのころ、跡見学校に通っていたのが、後に富太郎の妻となる原屋寿(やす)横浜で屈指の生糸売込み業を営んでいた原善三郎氏の孫娘である。
最初祖父である原善三郎は田舎の出自である富太郎の事を認めていなかったようだが、跡見学校の創始者である跡見花蹊が聡明な富太郎のことを見込み、原家との縁を取り持ったようである。そして、23歳のときに原家の婿養子となり、原富太郎を名乗ることになる。
やがて富太郎氏が31歳になると、善三郎氏は死去し、この土地とともに原家の家業を継ぐことになった。
横浜市を本拠にして絹貿易で財を成し、1920年、52歳で横浜銀行の頭取になり、関東大震災後は私財をなげうって復興に尽くす。
古画古美術を愛好し、国宝「孔雀明王」や「閻魔天」「寝覚物語絵巻」を含む優れた名画名品を多数収集し、それによりわが国古来の芸術作品が海外に流出するのを防いだ。総数6千点とも8千点ともされる三溪旧蔵の名品の多くは、現在、三溪園内の三溪記念館や全国の美術館、博物館で見ることができる。
原家は明治35年(1902)横浜市老松町(現在の野毛山公園)から、善三郎の山荘のあった本牧三之谷に転居する。三之谷の名にちなんで「三溪」と号したとされるが、恩のある跡見花蹊の蹊との同音も意識されていたらしい。明治39年、自宅の三溪園(現在の外苑)を一般に無料開放開放する。海に臨む山や谷など起伏ある景勝の地を活かし、由緒ある古建築を移築し、滝や石など配置し造園した名庭園。
日本美術院の岡倉天心に新鋭画家援助の意志を伝え、下村観山、安田靫彦、今村紫紅、速水御舟、小林古径、前田青邨、また木彫家の平櫛田中、佐藤朝山らを経済的・精神的に支援した。

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